Se connecterエレベーターが一階へ着くまでの時間が、紗良にはひどく長く感じられた。
陽向はそんな母親の事情など知らず、抱えていたティラノサウルスの口を動かしながら、「今日のハンバーグはチーズ二枚にしてもいい?」と真剣な顔で交渉している。
「一枚です」
「二枚のほうがおいしいよ」
「味の問題じゃなくて、さっきから成功報酬が勝手に増えてるの。プレゼンの結果、まだ出てないんだからね」
「でも、お母さん頑張ったんでしょ?」
「頑張ったけど」
「じゃあ一枚半」
「チーズを半分に切る手間を増やさないでください」
陽向は納得できないらしく、恐竜へ「厳しいよね」と同意を求めた。
いつも通りの会話だった。
だからこそ救われる。
五年ぶりに玲央と会ったからといって、世界全部が変わるわけではない。帰れば洗濯物を取り込み、陽向を風呂へ入れ、夕食を作り、寝かしつけたあとには今日のプレゼン資料を整理する。明日になれば社員が出勤し、電話が鳴り、請求書が届く。
玲央は過去だ。
今日偶然、その過去が目の前を横切っただけ。
そう考えればいい。
エレベーターの扉が開くと、広い一階ロビーには午後の日差しが差し込んでいた。ガラス張りの壁の向こうを、スーツ姿の会社員や買い物帰りらしい人々が行き交っている。
「お母さん、トイレ行きたい」
「今?」
「うん。さっきは行きたくなかったんだけど、今なった」
「どうして子どもって、建物を出る直前に言うんだろう……」
「知らない」
「でしょうね」
紗良は苦笑し、陽向を連れてロビー脇の案内表示へ向かった。
手洗いを済ませ、今度こそ帰ろうと建物の正面玄関へ向かったところで、スマートフォンが震えた。
奈々からだった。
『社長、すみません。プレゼン室に充電器忘れてます。今、私が持って降ります』
「やっちゃった……」
「何?」
「お母さんの忘れ物」
「僕には忘れ物しないでって言うのに?」
「大人にもいろいろあるの」
紗良が答えると、陽向はすぐに眉を寄せた。
「またそれ」
「便利なのよ、この言葉」
「ずるい」
「大人はずるいところもあります」
奈々が来るまでのあいだ、二人は玄関横のソファで待つことにした。
陽向はそこへ座ると、すぐに鞄から小さな恐竜図鑑を取り出した。最近はひらがなだけでなく簡単な漢字にも興味を持ち始めているものの、まだ読めない文字が多い。そのたび紗良に尋ねるので、一緒にいると十秒に一度は呼ばれる。
「お母さん、これ何て読む?」
「『白亜紀』」
「はくあき?」
「はくあき」
「白い?」
「白って字は入ってるけど、色の話じゃないよ」
「じゃあなんで白なの?」
「……そこまで聞くなら、帰ってから調べようか」
五歳児の「なんで」は、たいてい母親の知識の底を簡単に突き抜ける。
「分かった。じゃあこれは?」
「ちょっと待って、今メール確認するから」
スマートフォンへ目を落としたときだった。
玄関付近にいた警備員が姿勢を正した。
続いて数人の社員が立ち止まり、自然に道を空ける。
嫌な予感がした。
紗良は顔を上げた。
黒いスーツ姿の玲央が、こちらへ歩いてきていた。
どうしてまだいるの。
そう思った直後、自分のいる建物が彼の会社の関連施設であることを思い出す。むしろ、まだいるのが自然なのは玲央のほうだった。
逃げる理由はない。
だから動くな。
紗良は自分へ言い聞かせた。
「あ、おじさん」
先に気づいた陽向が、図鑑を閉じた。
玲央も足を止めた。
「まだいたのか」
「お母さんが忘れ物したんだよ」
「陽向」
「本当でしょ?」
「本当だけど、人に会うたび報告しなくていいの」
玲央の口元がわずかに緩んだ。
「忘れ物は何だ」
「充電器です。神崎社長には関係ありません」
「聞いただけだ」
「では、お答えしました」
「相変わらず今日はずいぶん刺々しいな」
「五年ぶりに会った元知人に、そんなことを言われる筋合いはありません」
「元知人、か」
玲央はその言葉をゆっくり繰り返した。
「さっきは『昔、少しだけ知っていた人』だったな。ずいぶん関係が薄くなったものだ」
「陽向の前です」
紗良が低い声で言うと、玲央はそれ以上口にしなかった。
陽向は大人二人を見比べてから、小さく首を傾げた。
「お母さん、このおじさんのこと嫌いなの?」
「陽向」
「だって、お母さん、会社の嫌いな人に話すときと同じ顔してる」
「会社に嫌いな人なんていません」
「この前、『あの担当者また値段下げろって言ってきた』って――」
「家の話を外でするのをやめましょう」
「だって本当なのに」
玲央がとうとう小さく笑った。
その笑い方を見た瞬間、紗良の胸の奥が思いがけず痛んだ。
昔もそうだった。
玲央は声を立てて笑うことが少ない。紗良が何かおかしなことを言ったとき、口元だけを少し緩める。それを見られた日は、自分だけが彼の知らない顔を知っているような気がして嬉しかった。
くだらない。
五年前の思い出に、今さら意味はない。
「何がおかしいんですか」
「いや。君が昔よりずいぶん賑やかになったと思って」
「誰のせいで鍛えられたと思ってるんです」
言ってから、しまったと思った。
玲央の表情が変わる。
ほんの一瞬だったが、紗良には分かった。
「……それは、俺のことか」
「違います。子育てのことです」
半分は嘘だった。
陽向を育てるうち、確かに紗良は言いたいことを言うようになった。しかし、五年前の結婚生活で黙り続けた反動も、今の自分を作っている。
そのとき、奈々から再びメッセージが届いた。
『すみません、担当者につかまりました。あと五分ください!』
紗良は小さく息を吐いた。
玲央は向かいのソファへ腰を下ろした。
「待つの?」
陽向が尋ねる。
「ああ」
「何を?」
「車を」
玄関の向こうには、黒塗りの車がすでに停まっているように見えた。
陽向もそれに気づいたらしい。
「もう来てるよ」
玲央が黙った。
「……運転手が準備中なんだ」
「車、止まってるのに?」
「陽向、人には聞かないほうがいいこともあるの」
「これも大人?」
「今日は覚えることが多いね」
紗良が強引に話を終わらせる。
玲央が車を待っていないことくらい分かっていた。
自分たちがここにいるから残っている。
それが分かるからこそ、落ち着かなかった。
陽向は気にする様子もなく、再び図鑑を開いた。
「おじさん、恐竜で何が好き?」
「特にない」
「じゃあ選んで」
「選ぶ必要があるのか?」
「一個くらい好きなのあったほうが楽しいよ」
玲央は困ったように図鑑を覗き込んだ。
紗良は止めるべきか迷った。
陽向は人見知りをしないわけではない。むしろ初対面の大人には慎重なほうだ。それなのに玲央には、なぜか最初からずいぶん自然に話しかけている。
「これ」
玲央が一頭を指した。
「トリケラトプス?」
「ああ」
「なんで?」
「見た目が分かりやすい」
「それだけ?」
「何を期待してるんだ」
「もっと強そうだからとか、かっこいいからとか」
「じゃあ、角があるから」
「適当に言ってるでしょ」
陽向が不満そうに頬を膨らませる。
「五歳児に見抜かれてるじゃないですか」
思わず紗良が言うと、玲央がこちらを見た。
「五歳?」
しまった。
胸の奥がひやりと冷えた。
ほんの何気ない言葉だった。
陽向は五歳。
それ自体は隠しているわけではない。
しかし玲央にだけは、できれば知られたくなかった。
正確には、今はまだ。
玲央の顔から、先ほどまでのわずかな柔らかさが消えていた。
「……その子、五歳なのか」
紗良はすぐに答えなかった。
陽向は図鑑から顔を上げた。
「うん。五歳だよ」
「陽向」
「だって僕、五歳だもん」
子どもに口止めなどしていない。
それなのに、紗良の声には思った以上の強さが出た。
陽向が少し驚いた顔をする。
しまった。
「ごめん。怒ってないよ」
「うん……」
紗良は息子の髪を撫でた。
その手がわずかに震えている。
玲央は見逃さなかった。
「五歳の、何月生まれだ」
「どうしてそんなことを聞くんですか」
「聞いただけだ」
「さっきから、あなたは聞いただけと言えば何を尋ねてもいいと思ってません?」
「そういうつもりじゃない」
「では、答える必要もありません」
空気が変わった。
先ほどまで恐竜の話をしていたとは思えないほど、玲央の目が鋭くなる。
紗良は知っていた。
この男は数字に強い。
日付を忘れない。
仕事の契約日も、会食の内容も、一度目を通した資料の数字も異様なほど正確に覚えている。
結婚生活の中でも、玲央が記念日を忘れたことだけはなかった。
その日を一緒に過ごすかどうかは別として。
五年前、自分たちが最後に夫婦として暮らしていた時期を、玲央が忘れているはずがない。
「お母さん?」
陽向が不安そうに紗良の顔を覗き込んだ。
「大丈夫。もう奈々さん来るから、それ受け取ったら帰ろうね」
「うん」
「今日はハンバーグだったな」
玲央が突然言った。
陽向がすぐに明るい顔へ戻る。
「そうだよ。チーズのせるの」
「一枚だけね」
「一枚半」
「まだ交渉してるの?」
親子の会話へ戻そうとした。
玲央も、それ以上年齢の話はしなかった。
けれど、紗良には分かっていた。
終わっていない。
むしろ始まってしまったのだ。
やがてエレベーターから奈々が小走りで現れた。
「高瀬さん、お待たせしました! 本当にすみません、担当の方から追加資料のことで質問されて――」
そこまで言ったところで、玲央の存在に気づき、奈々の声が一段低くなった。
「……神崎社長。お疲れさまです」
「ああ」
「社長、充電器です」
「ありがとう。助かった」
紗良は充電器を鞄へ入れた。
「じゃあ帰ろう、陽向」
「うん。おじさん、じゃあね。トリケラトプスのこと、ちゃんと調べたほうがいいよ」
「善処する」
「ぜんしょ?」
「調べておくという意味だ」
「最初からそう言えばいいのに」
玲央はまた何も言えなくなった。
奈々が俯き、肩を小さく震わせている。
「ほら、行くよ」
紗良は陽向の手を取った。
今度こそ正面玄関を抜ける。
外へ出ると、十月とはいえ昼間の空気にはまだ少しだけ夏の名残があった。ビルのガラスに光が反射し、眩しさに陽向が目を細める。
「お母さん」
「なに?」
「さっき、なんで僕が五歳って言ったら怒ったの?」
紗良の足が一瞬止まりそうになった。
「怒ってないよ」
「でも怒った声だった」
こういうところだけ妙に敏感だ。
「……ごめん。お母さん、ちょっとびっくりしただけ」
「僕が五歳なの、びっくりすること?」
「そうじゃなくてね」
どう説明すればいい。
あなたのお父さんかもしれない人に、あなたの年齢を知られたくなかった。
そんなことを五歳の子どもへ言えるはずがない。
「昔の知り合いに、家族のことをいろいろ聞かれるのが苦手なの。陽向が悪いわけじゃないよ」
「そっか」
陽向は素直に頷いた。
「じゃあ僕、次から言わない」
「そこまでしなくていいの」
「どっち?」
「……難しいね」
「やっぱり大人って面倒くさいね」
「本当にね」
紗良は笑った。
笑いながら、後ろを振り返りたくなる気持ちを必死に抑えた。
玲央はもう建物の中へ戻っただろうか。
それとも、まだこちらを見ているのだろうか。
確かめる必要はない。
紗良は陽向の手を握り直し、駅へ向かって歩いた。
◇
同じ頃。
神崎玲央は、玄関前から動かずに二人の後ろ姿を見送っていた。
「社長」
背後から宮坂が声をかけた。
「車の準備はできています」
「分かっている」
「先ほどからできていましたが」
「宮坂」
「失礼しました」
長年玲央のそばで働いているだけあって、余計なところだけ正直な男だった。
玲央は腕時計を見る。
次の会議まで二十分。
本来なら、とうに移動していなければならない。
それでも足が動かなかった。
五歳。
頭の中に、その数字が残っている。
高瀬陽向。
紗良の息子。
五歳。
「宮坂」
「はい」
「五年前、紗良が家を出た日を覚えているか」
宮坂は一瞬だけ表情を変えた。
「……六月十四日です」
玲央自身が忘れるはずはなかった。
忘れられる日ではない。
「離婚届が受理されたのは」
「六月十七日です」
「そうだったな」
玲央は目を閉じなかった。
記憶を辿る必要さえない。
五年前の六月。
あの時期に何があったか。
どれほど仕事が立て込んでいたか。
紗良がどんな顔をしていたか。
自分は最後にいつ彼女とまともに食事をしたか。
断片的だったものが、不愉快なほど鮮明に戻ってくる。
もちろん、五歳だからといって自分の子どもだとは限らない。
年齢には幅がある。
離婚直後に紗良が誰かと出会い、子どもを授かった可能性だってある。
理屈では分かっている。
しかし、先ほど紗良が見せた反応が引っかかった。
ただ年齢を尋ねただけで、あそこまで警戒する理由は何だ。
「社長」
「何だ」
「次の会議ですが、本社到着がぎりぎりになります」
「ああ」
玲央はようやく車へ向かった。
後部座席へ乗り込む。
扉が閉まり、外の雑音が遠ざかった。
宮坂が助手席へ座り、運転手が車を発進させる。
玲央は窓の外を流れる街並みを眺めながら、無意識に左手の親指を右手で触った。
そこで動きが止まる。
さっき。
陽向も同じことをしていなかったか。
恐竜図鑑を見ながら、考え込んだとき。
左の親指の付け根を、反対の手で触っていた。
そんなものは、ただの偶然だ。
そう結論づけるには、なぜか胸の奥が騒がしかった。
「宮坂」
「はい」
「高瀬紗良について調べろ」
宮坂が振り返る。
玲央はすぐに付け加えた。
「住所を探れとか、私生活を洗えという意味じゃない。今回の案件で提出されている経歴と、公開情報だけでいい。彼女が会社を設立した時期と、その前後の経歴を確認したい」
「承知しました」
「それから――」
言いかけて、玲央は止まった。
陽向について調べろ。
一瞬、それを口にしそうになった。
しかしやめた。
五歳の子どもの情報を、本人も母親も知らないところで調べる。
それを当然のように命じる男にはなりたくなかった。
少なくとも今は。
「いや、それだけでいい」
「分かりました」
玲央はシートへ背を預けた。
頭から離れないのは、紗良の顔だった。
陽向が五歳だと答えた瞬間。
あのとき確かに、紗良は怯えた。
怒ったのではない。
隠したいものを見つけられそうになった人間の顔だった。
玲央は窓の外へ目を向けたまま、五年前の日付をもう一度頭の中で数え直した。
そして初めて、自分があの少年の年齢を知ることを、紗良がなぜあれほど恐れたのかを考え始めていた。
第27話 俺はまだ彼女を愛している 神崎玲央の月曜日は、朝七時半の役員会議から始まった。 海外事業部の収益見通し、来期の設備投資、傘下ホテルの稼働率。午前中だけで三つの会議を終え、昼食は執務室で資料を読みながら済ませる。 以前なら、それで何の問題もなかった。 むしろ効率がいいと思っていた。 ところが最近は、十二時を過ぎると妙なことを考える。 陽向は今ごろ何を食べているのだろう。 保育園の給食は、毎日献立が違うのだろうか。 ピーマンが出た日はどうしているのか。 嫌いだと言いながら、本当に一口も食べないのか。「社長」 宮坂の声で、玲央は手元の資料から顔を上げた。「何だ」「先ほどから同じページを三分ほどご覧になっています」「読んでいる」「そのページ、昨日も確認済みです」「もう一度読んでいる」「では内容を伺っても?」「……」 玲央は資料を閉じた。「嫌な秘書だな」「長く仕えておりますので」 宮坂は悪びれず、次の書類を机へ置いた。「十四時からの財務会議ですが、予定どおりです。それから、会長夫人から今週末の食事について、再度ご連絡がありました」 玲央の顔からわずかに表情が消える。「断ったはずだ」「先方のお嬢様との顔合わせではなく、今回は親子だけで食事をしたいとのことです」「母と?」「はい」「何か言っていたか」「電話では『最近、玲央の様子がおかしい』と」「ずいぶん曖昧だな」「具体的には
第26話 嫌いになれたら楽だった 月曜日の朝、紗良は目覚ましが鳴るより先に目を覚ました。 隣では陽向が布団を半分蹴飛ばし、枕から頭を落としかけた格好で眠っている。昨夜は公園から帰る電車の中でほとんど寝ていたくせに、帰宅すると急に元気を取り戻し、玲央から聞いた電車の話を思い出しては「あれは知ってた」「これは知らなかった」と延々報告していた。 父親と会った日。 その言葉だけを聞けば、もっと大きな事件になっていてもおかしくなかった。 ところが陽向にとっては、どうやら「玲央おじさんと電車を見た日」であり、「ココアを飲んだ日」であり、「少しだけパパっぽかった日」でもあるらしい。 子どもの受け止め方は、大人が恐れるほど劇的でも、単純でもない。 紗良は陽向へ毛布を掛け直し、静かに寝室を出た。 キッチンで湯を沸かしながら、昨日の玲央を思い出す。 アイスをねだった陽向へ、母親の判断を優先したこと。 知らない電車について、知ったふりをしなかったこと。 陽向から「まだパパか分からない」と言われても、傷ついた顔をしながら受け入れたこと。 そして別れ際。『次もちゃんと聞いてください』 自分は、そう言った。 陽向の話だけではない。 私の話も。「……何言ってるんだろ」 湯気の向こうで、自分へ呆れる。 五年前は話を聞いてほしかった。 今はもう別れた。 悠真との再婚も考えている。 それなのに今さら、玲央へ「私の話も聞いて」と言うなんて。 どこまで欲張りなのだろう。 五年前にもらえなかったものを、今の玲央へ求め始めている。 その事実に気づくと、胃のあたりが重くなった。
第25話 パパって、どんな人? 翌週の日曜日、陽向は朝から落ち着かなかった。 朝食を食べながら何度も時計を見て、まだ九時を過ぎたばかりなのに「もう行く?」と聞く。約束は午後一時だった。「まだ早いよ」「でも電車の公園、遠いじゃん」「電車で三十分くらい」「じゃあ十一時?」「早すぎる」「十二時?」「それでも早い」 陽向は不満そうにトーストをかじった。「玲央おじさん、もう来てるかもしれないよ」「たぶん来てない」「なんで分かるの?」「この前、早く来すぎないって約束したから」「お父さんなのに約束いっぱいあるね」 紗良はコーヒーカップを持つ手を止めた。「そうだね」「普通のお父さんも?」「家族には約束って必要だよ」「悠真先生も結衣ちゃんと約束する?」「すると思う」「お母さんと僕も?」「毎日してるでしょう。夜九時には寝るとか、お菓子はご飯の前に食べないとか」「それは約束じゃなくてルール」「都合のいいところだけ分類しないで」 陽向は笑った。 父親が玲央だと分かってから、一週間。 生活が劇的に変わったわけではなかった。 玲央から陽向へ直接連絡することはない。陽向が会いたいと言ったときだけ紗良を通すという約束を、今のところ守っている。 美佐子にも何も伝えていない。 会社にも。 その事実が、紗良の警戒心を少しずつ緩めていた。 全部ではない。 でも、ゼロでもない。
第24話 元夫だから何ですか 日曜日の夜、陽向は布団へ入ってからも、なかなか眠ろうとしなかった。「お母さん」「なに?」「玲央おじさん、次いつ会う?」 枕元の灯りを消そうとしていた紗良の手が止まる。「今日会ったばっかりでしょう」「だから次」「そんなすぐ決めるものなの?」「約束しないの?」「約束っていうか……」 紗良はベッドの端へ腰を下ろした。 陽向は毛布から顔だけを出している。「また会いたい?」「うん」「本当に?」「なんで何回も聞くの?」「大事だから」「会いたくなかったら言うよ」 確かに。 陽向はそのあたりを妙に遠慮する子ではない。「何したいの?」「公園」「今日行ったよ」「違う公園」「公園なら何でもいいの?」「電車見えるところ」「ああ、あそこね」 少し離れた河川敷近くに、線路を見下ろせる公園がある。 陽向の好きな場所だ。「玲央おじさん、電車知ってるかな」「恐竜よりは知ってるんじゃない?」「ほんと?」「たぶん」「じゃあ聞く」 もう次に会う前提になっている。 紗良は少しだけ複雑な気持ちになった。 嬉しくないわけではない。 玲央が父親だと知ったことで陽向が拒絶しなかったことには、正直ほっとしている。 けれど同時に
第23話 陽向は僕の家族でもあります 恐竜パンケーキが運ばれてきたとき、四人の間にあった微妙な緊張は、ほんの少しだけ形を変えた。 皿の中央には、どう見てもティラノサウルスには見えない緑色のパンケーキが置かれている。店側としては恐竜らしさを出すためなのだろうが、背中に三角形のクッキーが何枚も刺さっているせいで、むしろステゴサウルスに近かった。「これ、ティラノじゃないね」 陽向が真剣な顔で言った。「メニューには恐竜ってしか書いてないよ」 悠真がメニュー表を指差す。「じゃあ何?」「何だろうな」 玲央まで皿を覗き込む。「ステゴサウルスっぽい」「おじさん分かるようになったじゃん!」「勉強した」「すごい」「この程度で褒められると複雑だな」 紗良は思わず笑った。 つい数週間前まで、玲央が恐竜の種類を調べている未来など想像もしなかった。 陽向はナイフを持とうとして、すぐ紗良に止められる。「お母さん切って」「はいはい」「頭からはやめて」「どう切っても最終的には食べるんだけど」「そういう問題じゃない」「大事なんだね」 悠真が笑う。 紗良が胴体の部分から小さく切り分けると、陽向は満足そうに頷いた。「おじさんも一口」「約束だったな」 玲央は観念したようにフォークを取った。「悠真先生も」「僕も?」「同じテーブルなんだから」 陽向の中では、そこにいる人間は全員参加らしい。 悠真も断らず、小さく切った一
第22話 この人が久世先生 日曜日の朝、紗良はいつもより少しだけ早く目を覚ました。 カーテンの隙間から入る光は柔らかく、キッチンへ立つと、まだ冷えた床の感触が足裏へ伝わってくる。冷蔵庫を開け、卵と牛乳を取り出したところで、今日は何を作るつもりだったのか一瞬分からなくなった。 昨日、陽向と約束した。 父親が誰なのか、今日きちんと話す。 たったそれだけのことなのに、契約金額が何千万も動くプレゼンより緊張している自分がおかしかった。「フレンチトーストにしよう……」 陽向の好きなものを作れば話しやすくなるかもしれない、などと考えたところで、それでは子どもを食べ物で釣っているみたいだと思い直す。 けれど結局、フレンチトーストを焼いた。 母親というものは、ときどき自分でも理屈の分からないことをする。「いい匂い」 寝室から、髪をあちこちに跳ねさせた陽向が出てきた。「おはよう。顔洗っておいで」「今日フレンチトースト?」「そうだよ」「なんで?」「日曜日だから」「昨日の日曜日じゃない日は普通のパンだった」「細かいこと気にしない」「お父さんの話するから?」 いきなり核心へ来た。 紗良はフライ返しを持ったまま振り向く。「……覚えてたんだ」「約束したじゃん」「そうだね」「お母さん忘れた?」「忘れてないよ」「じゃあ食べたら?」「食べてから話そう」「今じゃだめ?」「焦げるから」 陽向はフライパン